自由の履き違え
これについてのお話。
ヨガを学び出してから
身体的にはもちろんのこと、物事や出来事、自分自身、色んなことに思いを巡らせて生きていくことがクセになっています。
個、自分を主体に考えるのも習慣というか、当たり前のように主観で見てしまうのもな
かなか取れないクセですね。
これも、煩悩の一つ
ヨガを学び深めていくと、そこには心の修行が不可欠となってきます。
自身の内側、体内のエネルギーを意識するようになるのは、ヨガを行う上で重要な呼吸。
プラーナヤマのプラクティスが関わってきます。
体の構造上で医学的に承認されている、
骨、筋肉、臓器などとは別のもの。
回路、チャクラなど、最近では
化学的研究もなされ数値としてしっかりと研究結果がでていたりましますが、このなんともスピリチュアルに近い事柄は、ヨガを深めて意識を向けていくごとに
あ。
ほんとうにこれは実感できるんだな。とか
少しずつ感じる瞬間がやってきます。
練習をするたびにヨガの効果というものに触れてはいますが、意識が変わるだけてここまで見え方考え方が変わるのか!とも。
気づきが多いです。
しかし。やはりまだまだ外の世界に目がいき、自分を主体としてその外を見てしまう癖は取れないものです。
モヤモヤしたり何かしんどいなと思ったりすることもまだまだあります。
ん〜!まだまだじゃ!!
なんですぐこんな考えになるのか?!
いかんいかん。
修行修行。となる日々なわけです。笑
そんな中でも客観的に、その事柄をみて、聞いて感じて、
んーーーー。
それはちょっと違うんだろうけど
なんて言い表したらよいかな。
それについて、そうすべき。も
こうじゃないと。もないんですが。。
そしてそれに良いも悪いも、私がジャッジする事でもない。あくまで”その事柄”に対して思うこと。
自由とか、愛だ!とか
心のままにあるがままに
と言う言葉を使って
履き違えている事柄沢山あるなぁと感じているます。
動物的自由(心のはたらきに人間らしい理性や感情がなく動物的に本能(後天的習性)で動く
この事を自由だ!
心の解放、心の平和、と思っている。
けれどこれは習性的自由。
この言葉で思い浮かべるのは
心の欲求あるいは心のままに。
そこで言う心のままには
単なる習性。
本当の自分って言う言葉がありますが
自分で認識している部分は表面上の自分で
我慢したり、こう見せたい。こうじゃなきゃいけない。など
小さい頃から自分を隠して生きて壁ができているとすると
この硬い壁の上を普段の自分として
その奥に深い本当の自分がいる
つまり本当の自分はこうしたい!
我慢して生きるなんて!
という潜在意識
この潜在意識の自分を本当の自分と考えて、
解放する。
これを
自由の生き方ととってしまう。
これは表面的に作った自分から見たら
本当の自分近いといえますが
そうじゃない。
動物はこの習性にのっとって生きている
食欲だったり弱い者いじめたいと言う気持ち。強いものから逃げたい。自分が優位に立ちたいなど単純な習性
ただそれだけに従って生きていく
これは動物的自由。
立て前のない自由な生き方にみえます。
けれど本当の自由っていうのは
習性からの自由
一般的な自由は『習性通りに行きること』
心から湧き上がってくる習性の欲求のままに
生きることこれを自由と思っている
心の欲求を縛っている、重い感情欲求がある
これは生来のものではない作られたもの
ここに気づいているのと気づいていないのでは、まったく考え方捉え方、生き方がかわるなぁと。
まぁ。
難しい!笑
よくいうプラクリティとプルシャ
プルシャ、本質。魂とされる安定した真我と
観られるもの、変化し続けるもの、肉体や心は
プラクリティと呼ばれ、この観られるものをさ
自分と錯覚し混同することで苦しみに繋がる。
とされています。
この切っても切れない存在が生きることを
辛くさせたり、楽しくさせたりもする。
ほんとに奥が深く、最初は??が飛び交う内容なんですが、経典を読んだり勉強を進めていく上で、なるほどなるほど。と思ったことを、シェアしたいと思い、今回のブログとなりました。
本当の自分…
そんなことを考えている時点で
プラクリティに惑わされているということでしょう。
ヨガをし、プラクティスを続けることで
まやかしから解放されていくと、もうわかっていることなので
日々修行!ということですね。笑
なんだこれ?と
思われる方もいらっしゃるかもしれません。
けれど何年か後、何ヶ月か後に
練習が進んでいけば、ああ。もしやこういうことかいな。
とふっと気づきが訪れるかもしれない。
またシェアしたい教えや書き留めたいことを
残していきたいと思います!
お読みいただきありがとうございます♡♡